1・失った現在位置
島々の海に入って八週間目、ホーン岬に向かう[青海]はペナス湾を前にした。南米大陸西岸に延々と続く、大小無数の島々とフィヨルド地形は、このあたりで中断している。湾を渡って八十キロ南に着けば、再び島々の続きが始まるのだ。
でも、ペナス湾は実に悪名高い場所だった。
「ゴルフォ(湾) デ ペナス、ムイ(とても) ペリグロッソ(危険)」
これまでチリの港で会った人たちは、口を合わせて言いながら、手の平を上下に動かして、大波の真似をしてみせた。湾を渡り終えた付近には、危険な岩や浅瀬も点在するという。〈ペナス〉とは、スペイン語で苦痛を意味するとも聞かされた。
早朝四時、船室のベッドで目を開く。入江を吹く突風が、闇に吠え声をあげている。大粒の雨が、ときおりデッキをたたく音。ハッチを開けて黒い夜空を見上げると、ポカリと開いた雲の穴から、さらに黒い空が顔を出して、星が一個、光っていた。
「どうしよう?」雨で視界が悪ければ、ペナス湾の南側に着いたとき、おそらく岩や浅瀬に乗り上げる。
食事を終えてデッキに出ると、明るい曇り空の朝だった。風は人を威嚇するように、強弱を変えて鳴る。だが、幸いにも北風で、湾の南下に好都合だ。すでに雨はやんで、視界もそれほど悪くない。雨上がりの冷たく澄んだ曇り空の下、鮮明な輪郭の山々が、紺青の板を切り抜いたように見えている。
やはり決行しよう。悪天候で有名なペナス湾、何週間待っても晴天は来ないだろう。これでも今日は上天気かもしれない。
ただちに百メートルのロープを引いて錨を揚げると、舵を握って入江を出た。やがてペナス湾に入った[青海]は、追手の強風を受けて快走する。が、船体は波に大きく激しく揺れていた。
進むにつれて、背後に並ぶ鮮明な紺青の山々は、急速に色を失い、曇り空のバックに溶けるように消えていく。あたりは陰気な空と海だけの、完全な灰色世界に変わっていた。
出発から約四時間後、湾の中央に近づくと、波は急激に高まった。頂上の鋭利な三角波が、船尾に追突して空に砕け、頭上にバラバラと水の塊が落ちてくる。船体は上下左右に激しく揺れて、針路を保つのが難しい。まるで暴れ馬に乗るようだ。デッキから振り落とされそうになりながら、夢中で命綱にしがみつく。
だが、追手の強風に帆をはち切れそうに膨らませ、[青海]は灰色の海を突っ走る。空は陰気に曇っていても、心だけは晴れていた。この調子なら、日暮れまでに湾の南側に着くだろう。悪名高いペナス湾を、やすやすと、何事もなく渡っているのが愉快でたまらない。
でも、一つだけ気がかりなのは現在位置だ。出発から八時間が過ぎても、水平線には何もない。おかしい。すでに島々が現れる時刻なのに……。降り始めた強い雨の中、進行方向に目を凝らす。が、そこにあるのは、次々に盛り上がる無数の波頭と、陰気な灰色の空ばかりだ。
2・雨で何も見えない
急に雨が小降りになった。と同時に視界が開け、[青海]の横に大きなピラミッド状の島影が現れた。湾の南側のアジャウタウ島に違いない。前方の水平線にも、雨上がりの澄んだ空気の中、鮮明な島々が紺青の切り絵のように見えている。
「ついにペナス湾を縦断した、悪天候で名高いペナス湾を渡り終えた。すべてが予定通りに進んでいる」
ところが、すぐに雨音が強まって、真横に見えたアジャウタウ島も、あれほどくっきり青く澄んだ前方の島々も、幻のように消え去った。あたりは再び、曇り空と海の灰色世界。雨が強い、本当に強くて、百メートル先の波頭も霞んでいる。
シャワーを全開にしたような、頭に水圧を感じるほど激しい雨は、いつになればやむのか。行く手には、無数の島々と危険な岩々が並んでいる。なのに、雨で一つも見えない。[青海]の現在位置も分からない。このまま前進を続ければ、いつ衝突しても不思議はない。
帆を引き降ろして、ともかく停船を試みる。が、強風の中、それは全く無意味な行為。完全に帆を降ろしても、マストが受ける風圧で、船体はどんどん前方に流れていく。
もはやどうしようもない。止まることも、風上に引き返すのも不可能だ。この絶対的な風の威力には、何をしようと逆らえるわけがない。[青海]は危険な岩々に向けて吹き流されるしか……。一方向に動くベルトコンベア、いや、止めることも逆行もできない運命と時間に運ばれるように。
舵をウインドベーンにまかせると、デッキから船室に降りて、海図を前に思案する。
「現在位置が不明でも、運がよければ目標のペンギン島に流れ着く。でも、雨で視界が最悪の中、コースが左に狂えば、島の左横を知らずに素通りする。逆にコースが右に狂えば、島の右手前の暗礁地帯に突入してしまう」――危険な、降りることのできない賭けだった。
気がつくと、いつのまにか雨はやんで、鮮明な視界が開けていた。[青海]の右の海面には、小高い島が姿を見せている。あの独特な三日月形は、ペンギン島の十キロ手前、サンペドロ島に違いない。急いでコンパスと六分儀で島を狙い、方位と仰角を測定すると、海図上に[青海]の現在位置を作図して、ペンギン島に向かうコースの線をひく。
ところがわずか数分後、再び雨が降りだして、鮮明な景色を一瞬にかき消した。ペンギン島まで残り八キロ。デッキに立って舵を握ると、裸のマストが受ける風圧だけで、強風の唸る灰色世界を吹っ飛ぶように流れていく。
やがて進行方向の空には、目指すペンギン島の薄い輪郭が見えてきた。海図にひいたコースの線と比べ、五度右に寄っている。おかしい、が、その意味をよく考えずに舵をきり、コースを右に修正した。
コースが右に狂えば、暗礁地帯に入るから、島影に向けて一直線に舵をとる。空より少し濃い灰色のシルエットは、急に鮮明な黒に変わり、岸に砕ける白波も見えてきた。
「白波、波?」波の大きさと比べれば、それは島というより大きな岩だ。何か違う、何かが狂っている。水深四十メートルを指していた測深機も、十数メートル、「危ない!」
3・突っ切るしかない !
そのとき雨が小降りになったのか、目指す島の後ろに、大きな山の輪郭が現れた。
「あれだ、あれが本物のペンギン島だ」雨で視界があまりに悪く、距離感も大きさの感覚も、すべてが狂ったまま、暗礁地帯の岩に向けて進んでいたのだ。
[青海]は疑いようもなく、海図上で緑に塗られた暗礁地帯の中にいた。船体の横では、海面すれすれの岩々に高波が砕け、猛烈な水煙を上げている。それは全身を揺さぶるほどの光景だった。海のパワーとすさまじさを、これほど心底感じたことはない。座礁して[青海]が壊れても、命だけは助かると思っていたけれど、ここでの座礁とは、大波に持ち上げられた船体が、自分を乗せたまま岩に激しく投げつけられ、一瞬に破壊されて沈没することだ。
でも、だからといって、もはや引き返すのは決定的に不可能だ。強風と高波の絶対的な威力には、何をしようと逆らえるわけがない。どんなに頑張ろうと風上には戻れない。
ならば、戻れない以上、引き返せない以上、暗礁地帯を突っ切るしかないだろう。でも、突っ切る隙間もないほど、岩々が密に並んでいたら……。たとえそうでも、前進以外に選択可能な道はない。
覚悟を決めると、海面に全神経を集中する。[青海]のまわりでは、いたるところ高波が白く激しく砕けている。だが、風で崩れる波と、水面直下の岩で砕ける波は微妙に違って、岩の存在がどうにか推測できる。いや、確実に岩の位置を特定しなければ、[青海]とぼくは助からない。
船体が波で高く上がるたび、前方を見渡して危険箇所を確認すると、一つ一つ避けて蛇行するように舵をきる。測深機の表示が減るたびに、背中に冷や汗をかいて船首を急いで横に向け、水面下に潜んだ岩を直前で回避する。船体の周囲で衝撃的に砕ける高波を、次々と全身に浴びながら、白く泡立つ暗礁地帯の水面を、烈風に飛ばされるように流れていく。
すると、いつのまにか、幸運にも測深機の表示は再び四十メートルを超えて、浅瀬の風下特有の、波のない水面に達していた。
風雨に煙るペンギン島に近づくと、安全な湾に入って錨を投下する。
「助かった、本当に命拾いした」
でも、真っ白く泡立つ浅瀬の海、船体の横で水煙を上げる黒い岩、鮮烈な映像が心に焼きついて離れない。
恐怖と雨の寒さで、ぼくはガクガク震えていた。
***チリ多島海の航海の様子は、BlueWaterStory03のページ以降に解説があります。
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